田町の歴史

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伊皿子貝塚が物語る住みやすさ

伊皿子貝塚は現在の三田3丁目の、小高くなった場所(標高約11m)にありました。昔はすぐそばまで江戸湾(品川湾)が迫っていたと言います。ここでは縄文時代の住居跡や貝塚、弥生時代のお墓、古墳時代や平安時代の住居跡、江戸時代の寺院跡などが重なり合って発見されました。古くから人の住みやすい場所だったことを証明しているかのようです。

 

現在はNTTデータのビルになっています。港区立港郷土資料館には長さ16mにも及ぶ貝層断面が保存・展示されています。

旧東海道がほぼ南北に走る

田町付近では、旧東海道が現在の第一京浜(国道15号)になっています。参勤交代のお殿様や、坂本龍馬ら幕末の志士たちもここを通って旅をしたのだと思うと感慨深いものです。

 

現在、休日に旧東海道を歩いているお年寄りのグループを見かけることがあります。東京から京都までの旧東海道を、何回かの休日に分割して歩き通すツアーもあるようです。

札の辻は江戸の正面入口だった

田町駅西口から第一京浜を横浜方向に向かうと「札の辻」という交差点があります。ここは江戸時代の高札場の跡です。三辻(三差路)の一角を利用して高札が掲示されました。高札はこのような通行人の多い町の入り口に立てられることがよくあり、新しい法令や決まり事を民衆に周知する役割を持っていました。庶民教育や幕府・諸藩の権威の誇示という側面もあったようです。高札を通じて民衆による密告が促されたりもしました。

 

江戸初期の元和2年(1616)、この札の辻に芝口門が建てられ、江戸正面入り口としての形式が整えられました。つまり、田町周辺が江戸の南の端だったということになります。田町には、江戸から出る直前の休憩のため、あるいは江戸に入ってほっと一息つくためのいっぷく茶屋がありました。

 

札の辻は東がすぐ江戸湾で、海を隔てて房総の山を望める、1日眺めても飽きない景色だったそうです。現在の風景からは想像できません。

現在の札の辻交差点。右は旧東海道の第1京浜(国道15号)、左は三田通りへ。ここが江戸の入り口でした。

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高輪大木戸跡

江戸市街の拡大に伴い、宝永7年(1710)には江戸の入り口と高札場は札の辻から南の高輪大木戸に移されました。木戸は夜間は閉じられました。

 

幕末期には、伊能忠敬がここを全国測量の起点としたそうです。(残念ながら、それを表わす石碑などはここにはありません。少し離れた芝公園の、丸山古墳の上に建っています。)

 

現在は石垣しか残っていませんが、国の史跡に指定されています。

「芝海老」の由来は芝、海産物が豊富に採れた場所

江戸時代にはもちろん芝浦の埋立地はありません。旧東海道(現在の第一京浜)の少し東側、JR線の手前くらいから江戸湾(品川湾)が広がっていました。藻塩の製造(海水を含んだ海藻を集めて塩を作る)が行なわれましたし、貝類、ウナギ、黒鯛などの海産物も豊富でした。芝浦沿いの料理屋ではとれたての魚介を調理して客に出していたことから、江戸前の生きのいい肴が「芝肴」と呼ばれるようになりました。特に芝海老は珍味の一つでした。芝海老という名前の由来は地名の芝です。

 

残念ながら20世紀後半には芝浦の芝海老はほとんど獲れなくなったそうです。

薩摩屋敷跡

江戸の諸藩は、領地からの距離と藩の力に応じて複数の屋敷用地が与えられました。幕末期の田町には薩摩藩上屋敷と抱屋敷が、高輪には薩摩藩下屋敷がありました。

 

上屋敷は周辺地域では最大規模のお屋敷でした。現在の第1京浜(旧東海道)から日比谷通りをはさみ、三田通り(桜田通り)まで、東西約800m、南北約300mの広大な敷地を有していました。

 

大河ドラマにもなった天璋院篤姫(徳川13代家定の正室)は薩摩出身。江戸に上った際に最初に住んだのがこの上屋敷でした。

 

幕末の慶応3年(1867)、江戸の治安維持に当たっていた諸藩の兵2000人あまりが、幕府を挑発するため略奪などを行ないました。幕府は江戸市中を不安におとしいれた浪人がいた薩摩藩上屋敷を攻撃、炎上させました。これが明治維新の動乱の発端となった戦闘です。

 

上屋敷の一部が現在のNECスーパータワーの敷地になっていて、建物の北側に「薩摩屋敷跡」の碑が建っています。また、ホテルセレスティンの南側の広場には薩摩藩上屋敷についての解説板があります。

西郷隆盛・勝海舟会見の地:江戸の街は幕末の戦火から救われた

江戸時代最後の年、慶応4年(1868)に、明治新政府軍参謀 西郷隆盛と、江戸幕府の陸軍総裁 勝海舟との間で、江戸城の開城(明け渡し)についての交渉が薩摩藩抱屋敷で行なわれました。現在の三菱自動車本社に会見の地という碑が建っています。

 

この時勝海舟は、戦になったら江戸に火を放ち、新政府軍の進軍を防ぐ覚悟までしていたという説があります。江戸の半分が犠牲になると予想していたとも言われます。もしこの焦土作戦が実行されていたら、すでに世界最大級の100万都市となっていた江戸は壊滅的な被害を受け、文明開化が大幅に遅れた可能性があります。日本の歴史が大きく変わったかも知れません。幸いにも両者の交渉がまとまり江戸城は無血開城されました。江戸の住民の命や家が守られたことが、明治期の急速な東京の成長につながったと言えるでしょう。

東海道線の両側は海だった

今でこそJRの線路沿いにはビルや街が広がっていますが、明治5年(1872)に開業した日本初の鉄道(新橋―横浜間)は、田町付近では品川湾上の築堤となっていて、そこを蒸気機関車の引く列車が走っていました。両側の車窓は海ですからきっと素敵な眺めだったことでしょう。

 

築堤のルートが選択されたのは、一部の住民が鉄道建設に反対したからだと言われます。また、田町付近の薩摩藩邸を避けたという説や、鉄道建設を急いだためという説もあります。
さらに、測量ができなかったという理由も伝えられています。軍事上必要であるから手放せないという理由で、高輪の陸地の測量が許可されなかったことから、鉄道敷設に尽力していた大隈重信が『陸蒸気(おかじょうき)を海に通せ』と指示したためとも言われています。

 

この線路を工事の境界線とするかのように、明治の終わり頃までには東海道本線の内側(西側)はほとんど埋め立てられました。大正期には芝浦の埋立地ができ始め、いよいよ線路の東側にも陸地が進出していきます。

 

なにせ明治初期には海の中でしたから当時田町駅は作られませんでした(笑)。田町駅の開業は埋め立てが進んだ明治42年(1909)です。現在の山手線に29駅あるうち、16番目の開業でした。